こぐまぶっく

韓国ニュースと韓国お役立ち情報を紹介

「国のために国民を犠牲に」コロナウイルスに見る中国の真実

f:id:lemon751231:20200429013630j:plain

 

世界が戦場と化した。マスクが街から消え、株価は暴落するなど大混乱をもたらしている。新型コロナウイルス感染事態を、まるで遠い国で起こっているかのように甘く見ていた結果だ。 前代未聞の災害に、世界各国は中国と韓国の取り組みに注目している。両国の新型コロナウイルス対策に基づいて、各国が自国の解決策を模索している最中だ。

 

外信は韓国の取り組みを「透明性、開放性、国民の協力」として評価している。それでは、中国の対策の本質は何か。国の安危を名分に、国民の犠牲を厭わない全体主義的国家運営である。これは、中国王朝からの「大きな国(大國)、小さな国民(小民)」の伝統に由来している。国は限りなく大きく、民衆は途方もなく小さい。国の利益のために国民の理解は無視される。さらに命まで差し出さなければならない。

 

官僚とメディア弊害がコロナ拡大に

 

事態初期の中国の「大國と小民」伝統により、2つの弊害が新型コロナウイルスを大きく加速させた。1つは、中国共産党が踏襲する官僚主義だ。中国では「天と戦い地と戦っても、官僚とは絶対に戦ってはいけない」という言葉がある。それだけ「官」の力が強い。武漢の医師数名が原因不明の肺炎ウイルスにかかったが、それだけで終わりだった。武漢の地方政府は、1月中旬に開催された市の人民代表大会と政治行事に気をとられていた。

 

中国政府は、来るべき春節の雰囲気を損なわないよう力を注いだ。習近平中国国家主席も元老たちへの挨拶で忙しかった。挨拶する相手が多いということは、それだけ後ろ盾があるという意味でもある。実際、新型コロナウイルスの発生を警告した李文亮(リー・ウェンリャン)などの中国医師8名は警察に召喚され「デマ伝播者」として訓戒処分を下された。もう一つは、メディア監視の不在だ。中国メディアも社会を監視しない。深入りすると報道機関も記者も身に危険が及ぶからである。新型コロナウイルスが猛威を振るい始めた時も、中国メディアは何の警報も鳴らさなかった。

 

習近平政権以降、メディアの自律性はより弱まった。社会の恥部を暴き出し弊害を告発するより、世界が中国の評判に傷をつけないか目を光らせることに集中した「愛国主義の商売」に没頭しているのだ。新型コロナウイルスは、このように医師によって発覚したものの、官僚やマスコミによって抑制されないまま恐ろしいほどに成長し、最終的に中国を襲った。これは「中国建国以来、最も速く拡大し、最も対処が難しい」という評価を受けることになった背景である。

 

退陣しない共産党…間違いを認めない

 

中国の新型コロナウイルス克服過程においても、個人の生命よりも国の安危を優先する「大國と小民」精神がそのまま表れている。習近平主席は「大きな危機であり試練」とされる新型コロナウイルス事態を迎え、武漢封鎖という史上初の手段に出た。しかし、封鎖されたのは人口1100万の武漢だけではない。6000万人の人口を誇る湖北省省全体が、中国の他地域から隔離された。武漢湖北省の人々の命を担保に、ウイルスが中国全土に伝播されることを防ぐ強気の施行であった。

 

閉鎖された都市で体を横たわらせられる病床はなく、多くの武漢市民が倒れた。実際、新型コロナウイルスにより、中国全体の死者のうち96%以上が湖北省で発生した。このような武漢湖北省の莫大な犠牲を対価として、中国は新型コロナウイルスの全国的な広がりを防いだ。しかし、代償は残酷だった。3000人もの尊い命を失い、14億人の国民が2ヶ月近く、事実上の自宅軟禁のような生活をした。レストランなど中小企業のオーナーは補償もなく閉店を強いられた。第1四半期の経済はゼロ成長に近いという言葉も出ている。このような中国の姿は、今後も大きく変わらないだろう。官僚の力が絶対的であり、社会問題を暴く批判は決して許されない。中国の最近の新規感染者数がゼロという発表は嘘という言葉すら出ている。

 

「大國と小民」が招くもう一つの問題は、過ちを認めないというものである。なぜそうなのか。過ちを認めた場合、責任を負わなければならない。それでは、責任はどのように負うのか。その場で退かなければならない。しかし、共産党は政権の場で退くつもりは微塵もない。そうなると過ちを認めないのは当然だ。批判者の口封じが行われ続けるのが、まさにこの理由だ。それでも、いくつかの改善は行われている。批判者の言葉の中で、共産党の執権に役立つものは受け入れられ、政策に反映するのだ。

 

中国の新型コロナウイルス克服は、最終的に国民の莫大な犠牲を土台としている。これにより、中国全土の安定を保っているのだ。問題は、責任の所在を濁す行為である。地方政府の代表者更迭がせいぜいだ。これ以上の責任追及はない。このような防疫経験を果たし、民主国家が続けられるのか疑問である。北京の通りを歩いたことがある人なら分かるかもしれないが、歩行に便利な道として作られているのではなく、制御や管理のために作られていると感じさせられる。国は大きく、民は小さいという事実を、街の片隅でさえ実感させられる、それが中国だ。