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韓国人「日本人はなぜ無能政府を前にじっとしているのか?」

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無能政府を責めない日本国民社会

 

コロナウイルス危機に関する日本政府の空振りが続いたように、韓国人たちの間では「日本人はなぜこのような状況にじっとしているのか?」という疑問がしばしば上がっている。国民の力で暴走する権力を懲らしめた歴史が生々しい韓国社会では、日本のようにじっとしていることは到底できないため、どうしても気になる話題のようだ。

 

新型伝染病との戦いが始まった日本政府は「緊急事態宣言」を出したものの、国民に外出を控えることを要求しただけで、これといった防疫対策はなく、不安は大きくなるだけである。安倍首相が、のんびりと犬とたわむれる動画をソーシャルメディアに掲載すると国民の怒りを買い、膨大な国家予算を使って支給したマスクは不良品が続出した。

 

ここまで来れば、国民の忍耐も限界を迎えそうなものだが、国民が政府を責める声はなかなか聞こえてこない。日本の国民は、自らの生命と健康がどうなっても構わないのだろうか?日本の国民はなぜ無能で傲慢な権力を黙認するのだろうか?

 

歴史の中で消えた「デモの時代」

 

韓国では政治的な問題だけでなく、性差別、職場いじめなど、さまざまな社会問題への集団行動が後を絶たない。光化門広場はいつも賑やかで騒がしいくらいであるが、おかげで社会的課題が公論化されて解決策を模索する動きも活発である。

 

対照的に日本では、国民による大規模な集団行動はなかなか見当たらない。過去には日本でも今の韓国に劣らず、国民が声を上げる時代があった。例えば、1960年代のベトナム戦争が勃発すると、日本の市民が連携して、大規模な反戦デモを継続的に実行に移したことがよく知られている。全国300余りの団体が連携した「ベトナムに平和を!市民連合」(略称:ベ平連)が主導したデモでは、数百万人のデモ隊が自発的に参加した。「ベ平連」は、日本政府に戦争に協力してはならないと明確に要求したほか、アメリカ政府にも戦争に反対であるという意見を堂々と伝えた。1965年11月、アメリカの新聞ニューヨーク・タイムズ一面に日本の市民の力を集めた「ベ平連」の名前で、「爆弾でベトナムに平和をもたらすことができるのか」という、刺激的なキャッチフレーズの全面広告が掲載されるほどであった。無気力な現在の雰囲気とは全く異なる「デモの時代」が日本でもあったのだ。

 

しかし、これらのことはあくまで半世紀前の歴史に過ぎない。急速な経済成長と社会的変化の中で、政治に対する関心が薄くなってしまった。学生運動の主役たちが政界に大挙進出した韓国とは異なり、日本で市民運動を率いたリーダーたちは、姿を消した。

 

この問題について、日本の知識人たちと意見を分かち合う機会があった。日本においては、国民による集団行動は、堪え難いものがあるようだ。健康な市民社会のために推奨すべきとする意見もあるが、日本人特有の「和」を大切に考える雰囲気の中で、自ら先陣を切るという負担を振り払うことは難しい。飲み込むことも、吐き出すことも難しいことなのだ。そうして結局、「日常の中で黙々と仕事をするのも望ましい市民」という教科書的役割論に無気力を正当化するのが常である。

 

日本人の知識人たちは、日本の市民社会に活力がない理由について、「暴走する権力による破綻を実際に経験したことないから」と分析した。韓国社会は軍事独裁民主化運動の暴力的弾圧など権力の乱用に起因する問題を痛いほど経験した。それに比べると日本社会では、少なくとも表面的には、国民が権力の暴挙を肌で感じたことがないというものである。

 

コロナによる「破綻」が日本国民社会に変化をもたらすか?

 

社会は「破綻」を経験しながら権力の危険性を悟り、苦しんだ過去と決別する。韓国のような過激な集団行動ではないものの、日本でもソーシャルメディアハッシュタグを活用して、政府のコロナウイルス対応を厳しく批判する「オンラインデモ」が静かに広がっている。このような様子を見ると、今回のコロナウイルス危機を通じて、日本社会が建設的な「破綻」を経験している最中なのかもしれないという気がする。いずれにしても、今回のコロナウイルス事態は、日本社会にとって重要な変化の契機となるだろう。今度こそ、日本社会が内部の矛盾と問題を考察するきっかけとなり、より良い国へと発展することを願うばかりだ。